『すばる』2024年6月号収録のエッセイ。
著者のクィアネスを受け止めきれなかった母親との関係が、緊張をはらみながらも少しずつ、少しずつ変化していく様子、相手が亡くなってもお葬式にいまのままでは出ることができるかもわからないクィアな恋人関係と同性婚法制化への想い、シスジェンダー/ヘテロセクシュアルが「標準」とされるこの世界に拒否された者たちのコミュニティが持つ重要さ。どれもこれもが、私の心の底にあるものと共鳴しました。
私が水上さんとまったく同じ経験をしているわけではもちろんありません。というか、私はたぶん(比べるようなことでもないだろうけど)いろいろな点でずいぶんスムーズで、むしろ水上さんとはだいぶん違う経験をしていると思う。
私の親や親戚関係は(父は当初微妙な反応をしたものの)、全般的に初めからサポーティブで、進んで知識も身につけてくれた。私はパンロマンティックであることもあり、それを意図したわけではないにせよ、結果的に移行前には女性とのみ、移行後は男性とのみ交際し、絶妙に「移行前も移行後もまるでヘテロのようにパスする」という道を歩めてきた。
だから、私は水上さんの語ることに必ずしも「わかる」と言えるわけでもない(コミュニティの話は「わかる」となりましたが)。でも、「ぜんぜん違うのだけれど、その水上さんと違う私の経験のあちこちに埋まった何かが、このエッセイを読んで疼く」と感じる。
なので、共感というより、共鳴する。そして、私は「違うのだけれど何かが共鳴する」というこれが、自分がそれぞれまったく異なる多様なクィアな人々に、それでも感じている繋がりなのだと思っています。