あれこれ日記

趣味の話とか

Baldur's Gate 3(ネタバレあり)

やっっっとクリアしました! 80時間ちょっとかかった。

バルダーズ・ゲート3 | スパイク・チュンソフト

ダンジョンズ&ドラゴンズ』の世界観とシステムを踏襲したゲームで、私はよく知らないけど魔法とかも全部そのままみたいです。

主人公は用意されているキャラクターから選ぶこともできるし、オリジナルキャラを作ることもできます。私は当然自分に似せて体の大きな女性主人公Nayutaを用意しました。名前はカタカナでもよかったらしい、とあとで気づきましたが、スーパードクターのKAZUYAさんみたいでかっこいいから別にいいですね。

物語は、マインドフレイヤーという、ひとの脳を吸ったり、ひとの脳に幼生を植え付けてマインドフレイヤーに変質させたりという、連中がいて、それにさらわれて脳に虫を入れられてしまうところから始まります。一緒に船に捕えられていた人々と協力して脱出するものの、虫は頭に入ったまま。けれど不思議とマインドフレイヤー化はしておらず、主人公は同じような境遇の仲間たちと治療の方法を探しながら冒険をすることになります。そしてだんだんとバルダーズゲートという街の存亡を賭けた大きな戦いに関わっていきます。

このゲームは、ストーリー的には膨大なサブクエストや分岐がありつつ、それでも大きな流れとしてはまとまっている感じで、その点では「どこに行って何をしてもいい」的な自由さは少なく、むしろ昔ながらのファンタジーRPGという感じでした。むしろやたらと自由なのは街中での行動や戦闘の進め方。普通に戦ってもいいし、高所に誘き寄せては突き落としたり足場を崩したりしてもいいし、水浸しにしたところに雷を落としてもいい。説得で戦闘なしでどうにかできる場面も多いです。複数のクラスを掛け合わせられるキャラビルドも面白くって、吸血鬼ローグ(盗賊)のアスタリオンというキャラにバード(吟遊詩人)になってもらって、歌って踊れる暗殺者盗賊になってもらったりしていました。

キャラクターも魅力的でいいですね。大柄でムキムキで天真爛漫な可愛らしい女性カーラックさんや、どこか影がありつつたまにきついことも言うシャドウハートさん、ねっとりとした口調で基本的に嫌なことばかり言うんだけど「お前、本当は寂しいんでしょ? 怖いんでしょ?」みたいな気配を迸らせているアスタリオンあたりがお気に入りでした。というか一週目はこの三人とずっと行動してた。

このゲームはクィアフレンドリーなのも発売時に話題になっていました。作中でも多くはないけれどNPC同性カップルがいたりしますし、なかにはかなりメインストーリーにみっちり関わってくる女性同士カップルもいたりします。仲間たちとわりと性的なシーンがあったりするのですが(日本語版だと規制が入って股間に葉っぱが一枚つくせいでギャグシーンみたいになるけど)、これも性別の制限はなくいろんなひととロマンスをしたりできます。キャラ作成時にノンバイナリーにしたら代名詞もtheyにしてくれる。

キャラ作成はけっこう面白くて、「ボディタイプ」と「ジェンダーアイデンティティ」を別個に選ぶんですよね。なので身体的な移行をしていないトランスのキャラとかも作れたりします。

まあどんなふうに作っても人々の反応も振る舞いも特に変わらないと思うのですが、それもいいですよね。現実の世界のひとたちは性別への執着が強すぎて疲れることが多いので、「そんなのどうでもいい」みたいな世界は気が楽です。この点では、「性別はあるが選ばれた一部の個体以外には生殖能力がなく、性器は性行為を楽しむためだけに用いられる」という種族がいたりするのも面白いですね。

戦闘が難しい場面もたまにあるのですが、全体的にはデフォルト難易度で「多少詰まってもじっくり対策を練ればクリアできる」くらいのバランスで、ちょうどよく感じました。吟遊詩人がイメージに反して強い気がする。

シャドウハートさんと交際していたのですが残念ながらロマンスイベントを取り逃がしていて、少し悔いを残しながらのクリアでしたが、これまでの冒険の総決算と言えるようなラストバトルに、すべてが終わったあとの宴の余韻が溜まりませんでした(骸骨みたいな外見のひとが幹事をしてくれる)。

一週目はドラウ女性のウィザードNayutaでプレイしていたのですが、いまはエルフのノンバイナリー吟遊詩人ナユタでプレイ中です。あちこちでとりあえず演奏している。

【追記】

本作には(ほぼ)明示的にトランスジェンダーのキャラクターがひとり登場します。主人公のひとりであるシャドウハートさんのかつての親友ノクターンです。

シャドウハートさんはシャーという神を信仰しているのですが、物語が進むにつれて自分自身の信仰に、そしてシャーに仕えるために奪われた自分の記憶と家族に向き合うようになっていきます。その結末はプレイヤーの選択肢によって大きく変わるようなのですが(極端な場合だとシャドウハートさんはある時点で永久に離脱するとか)、最終的にシャー教徒の拠点である悲嘆の館に行ったときに、この親友ノクターンさんと再会することになります。

と言っても、向こうははっきりと覚えているのに記憶を奪われているシャドウハートさんは思い出すこともできない模様。いろいろと切ないやり取りがあるのですが、そのついでにノクターンの日記を見ると、過去のふたりの姿がわかるのですよね。そこでは、「自分自身を女性と感じ、鏡のなかに女性の姿を見出す」と語るノクターンが、過去に望まない名前で呼ばれる(デッドネイミングされる)たびにシャドウハートに助けられてきたというエピソードが語られています。つまり、シャドウハートさんはトランスのために戦ってきたひとなんですね。

ふたりが過ごしたという洞窟のなかの湖にも行けたりするのですが、ノクターンも本当にシャドウハートを大事に守っていて、ひょっとしたらお互いに恋心も持っていたのかなと感じさせる描写だったりします。

ちなみにノクターンは演じているのもオープンリートランスのAbigail Thornというかたです。スターウォーズシリーズのドラマ『アコライト』にも出演するとのこと!

バルダーズゲート3は同性同士のカップルもいるし、たまに「このひとはシスジェンダーではないかも」と感じさせるひともいるし、そしてそのことを誰も気にしていない(しかしティーフリングが差別や暴力に晒されるなど、平和な世界ではない)のがとてもいいですね。クィアなプレイヤーがいるのだとわかって作っている感じ。

Vampire Survivors

poncle | Vampire Survivors

poncleによるアクションゲーム?シューティングゲーム?なゲーム。手頃な価格でありつつ中毒性があります。

2Dのマップをうろうろしながら敵を倒し、生き残っていくゲームなのですが、そこに武器やアイテムのランダム取得要素が入ってくるので、毎回その場で手に入ったものでビルドを考えていくローグライトな雰囲気もあります。

このゲーム、人気なのは聞いたことがあったけど、私が買うに至ったのはトランスキャラが出てくると知って。以下のRedditのスレッドに詳しくありますが、ジオヴァーナという魔女のプレイアブルキャラクターがトランスガールなんですね。

https://www.reddit.com/r/VampireSurvivors/s/IgVALAOTLp

翻訳をしたひとがそのあたりまったくわからなかったようで、日本語で該当箇所を見てもまるでわかりませんが。

設定によると、ジオヴァーナは「assigned mage at birth」。「出生時にメイジを割り当てられた」キャラです。もちろんこれは「assigned male at birth」、「出生時に男性を割り当てられた」のもじりですね。どちらも略称がちゃんとAMAB(トランス/ノンバイナリーコミュニティでよく使う言い回し)になるのが小憎らしい。

しかも、周りのウィッチたちは「protect witches' spaces」、「ウィッチ専用スペースを守れ」のスローガンのもとでジオヴァーナを排除しようとしているとのこと。言うまでもなく「protect women's spaces」、「女性専用スペースを守れ」という、現実でもトランス排除団体が掲げるスローガンのパロディです。

Redditのスレッドでもそうですが、英語圏ゲームコミュニティでは、(少なくとも日本語圏に比べると)こういうジョークがわりと通じるっぽいのが羨ましいです。発言の内容とかも基調が保守的になりがち(ちょっと情報を探しているとすぐトランスフォビア、ホモフォビアミソジニーレイシズムにぶち当たる…)日本語ゲームコミュニティに比べると全体的に和やかでそれも羨ましい。

で、私はすっかりこのジオヴァーナさんが気に入って、先日このキャラでの全ステージクリアを達成したので、めでたく私のなかでは「全クリした!」という扱いになりました。プレイしているひと向けに話すと、条件は①卵縛り、②パワーアップはリロールと選択肢消去のみ、③アルカナあり、④武器最大数変更あり、でした。本当はアルカナも縛りたかったけど心が折れました。

ジオヴァーナさんの特徴はなんといってもメインウェポンが猫! これが曲者で、何せ猫は気まぐれなので、ランダムな方向から現れてランダムに移動し、気が向いたら敵を引っ掻くけど何もしないでサボることもあり、場合によってはプレイヤーを攻撃し(ダメージあり)、回復アイテムなどを勝手に取ってしまうという。すごく順調に進んでいると思ったら気付かないうちに猫に引っ掻かれてゲームオーバーなんてことも頻発して、「猫がラスボス」という感覚でした。

それでもめげずにやり遂げたので、ジオヴァーナさんでクリアを目指すひとのために私の身につけたノウハウを書き記しておきます。

 

1 猫は進化させない

猫と石仮面を取ると猫を目玉に進化させられるのですが、猫に比べてダメージ効率が低くて、あまり旨味を感じないのですよね。引っ掻かれなくはなるけど。基本的には進化させないでやっていました。

2 クローバーを取る

猫の敵への攻撃や自キャラダメージ、広範囲攻撃が発生する猫喧嘩は、どうも運のステータスを参照して確率が決まってるっぽいので、進化アイテムの石仮面の代わりにクローバーを取るのが鉄板でした。回復アイテム出現率も増えるし、ありがたいですね。

3 回復手段の確保

とにかく猫ダメージが強敵なジオヴァーナさんプレイ。敵は攻撃で退けられるけど、猫はこちらからは攻撃もできないので、場合によっては敵の群れで身動きが取れないなか猫に引っ掻かれ放題なんてことも起こります。トマトでの回復は、私はほぼ必須でした。トマトをとる以上はニンニクバリアか銀の風もほしいですね。強く感じるのは銀の風だったのですが、遺骸地帯ではどうも銀の風だと回復ができないようだったので、ニンニクを使っていました。

4 困ったときは武器数を減らす

武器数が少ないほどステータスが上がるアルカナがあるので、本当にきついステージ(ボスラッシュとか)は武器上限を2か3にして、猫とメイン火力とだけでプレイするのが楽でした。よくやってたのは魔法の杖を取って2枚目のアルカナで魔法の杖の反射を取る、というやり方。

5 のちに使いたい武器に合わせてアルカナを選択

猫に効果があるのが弾数アップとか武器増殖とかのアルカナなのですが、猫は増えすぎると自ダメージも増えがちで、やや微妙。特に武器増殖は猫ダメージを軽減させようと猫を目玉に進化させても分身猫が残り続けるので、体力が厳しいときにはむしろマイナス面が大きく感じました。それよりも「最初の武器チョイスは魔法の杖に賭けて反射アルカナ」とか「鞭を取るからクリティカルアルカナ」とか決めてしまって、1レベル上がるまでは素の猫でがんばるほうが攻略しやすかったです。

ただ、最初にどうしても火力が欲しいという場合に1枚目に運のアルカナはありだと感じます。あと猫は最終的にはかなり強くなるので、生き残れさえすれば運アルカナも輝いてきます。ただ回復手段が確保しにくい序盤で引っ掻き自ダメージが増加するのがけっこうきついです。

6 頼りになるのは魔弾

ジオヴァーナさんはレベルが上がると弾速が増していくキャラ。なので魔弾はそのうちえらいスピードで画面を飛び交うようになって、強く感じました。もちろんステージごとにいろいろ変えたりはするのですが。

最後に、苦戦したステージの話。

ホワイトアウトは、猫の気まぐれに付き合って時間を使うより、猫も敵も無視して最速でグラスファンダンゴを取りに行っていました。そしてファンダンゴを使う前提で時止め武器を取り、アルカナも時間停止付与や時間停止時にダメージを与えるものを選んでいく。

最難関は小さな橋でした。何せ移動できる空間があまりないので、まず猫ががんばってくれないと敵の第一波を突破できない。15秒生き残れるかどうかが最初の関門でした。で、アルカナの組み合わせとか、商人から武器を買うかとかいろいろ試したのですが、最終的に攻略したときはこんな感じでした。

まず、武器数を2にして、アルカナは武器が少ないほど強化されるやつ。で、最初の15秒は猫ががんばってくれるよう祈り、失敗したらやり直します。猫ががんばってレベル2になれたら鞭を取ります。

これはいくつか理由があって、

  1. アルカナでの強化によって、鞭だとかなり連続で攻撃ができて突破がしやすい。
  2. 貫通もする。
  3. のちに回復武器に進化させられる。
  4. ステージ内に聖なる風があり、融合を狙える。

など。

魔法の杖とか魔弾とかも使ってみたのですが、出の遅さなどからかなり厳しかったです。取ったアイテムは確か、クローバー、ハート、箱(レベル8まで取ったあとでレベル9は選択肢消去で封印)、学術書(他のステージでは重視しなかったけど、橋ではとにかく攻撃回数を増やしたい)、トマト、指輪だったかと思います。トマトは鞭進化までにどうしても体力がもたなくて取っていましたが、もちそうならほうれん草かロウソクに代えるとよさそう。指輪は鞭の回数が増えるし、やや上にブレるぶん攻撃範囲も広がる感じがして使っていました。ほうれん草でもいいと思う。

2枚目以降のアルカナは、鞭のクリティカルと回復アップを狙っていましたが最終的にクリアしたときにはリロールが尽きて鞭のクリティカルの代わりに運のアルカナになったかも。

とにかくポイントは真っ先に鞭を取り、鞭の強化と攻撃力アップを優先し、血染めの鞭への進化の目処が立ったら聖なる風を取りに行って、最短で薔薇を目指すことです。猫は基本的には頼りにならないけど、順調に運と弾数と弾速が増えていたら、終盤には橋の至るところで猫喧嘩が起きて頼りになるはず。

まあでも、とにかくはじめ数秒で繰り返しゲームオーバーになるので、最終的には根気ですね!

というわけで、ヴァンサバが誇るトランスガールキャラのジオヴァーナさんでプレイしたいかたに参考になれば幸いです。私はほかだとエレノールさんとキーサさんが気に入っていて、エレノールさんはあっさり全ステージクリアができたので、いまはキーサさんでチャレンジしようとしています。

Katharine Jenkins (2023) Ontology and Oppression

https://global.oup.com/academic/product/ontology-and-oppression-9780197666777

ジェンダーアイデンティティ論文などで知られるキャサリンジェンキンスさんの、たぶん初の単著。ジェンキンスさんは2016年の"Amelioration and Inclusion"が『分析フェミニズム基本論文集』で「改良して包摂する」として訳されているので、日本語でも触れられる哲学者ですね。

「改良して包摂する」では、ジェンダーを一種の社会階級として分析するハスランガーの議論を踏まえ、階級としてのジェンダーとともにアイデンティティとしてのジェンダーにも目を向ける必要があると論じつつ、ジェンダーアイデンティティを内的な「地図」として、そしてそれをさらに規範との関係として分析する議論をしていました。

本書Ontology and Oppressionは、そんなジェンキンスさんの議論の背後にある体系的な思想が語られ、それに加えてジェンダーや人種に関する分析がさらに詳しく展開される本になっています。

本書に見られるジェンキンスさんの思想のポイントは以下の三点にまとめられるかと思います。

  1. 社会種に関する「制約と賦活」理論(Constraint and Enablement framework)
  2. 存在的不正義(ontic injustice)
  3. ジェンダーと人種の多元主義

「制約と賦活」理論は、さまざまな社会種がひとの行為を制約する規範とのひとの行為の可能性を開く規範とから構成されているとする立場で、大雑把に言えば社会種を規範の束のように見ているのかな、と思われます。ジェンキンスさんによれば、これはオリジナルの思想などではなく、明示されていないだけで社会存在論を論じる哲学者たちに共通する見解とのこと。

存在的不正義は「制約と賦活」理論からの帰結ですね。社会種が制約と賦活からできているとしたら、ある存在者がある社会的種に属す(「妻である」などが成り立つ)ことがそれ自体で直ちにその存在者にとって不当な帰結を持ちうるとジェンキンスさんは論じます。例えば夫婦間でのレイプが認められないような規範が流通している社会では、夫からの強制的な性行為をレイプとして訴えることをできなくする制約が妻という社会種そのものに組み込まれているのだから、誰かに関して「妻である」が成り立つことから即座にそのひとが不当な規範のもとに置かれていることになる、といった議論が展開されています。先にそのひとがどんな存在なのかが決まってからそれに不当/正当な規範が適用されるのでなく、そのひとがどんな存在なのかということがそのうちにすでに規範の適用を含んでいる、という考え方ですね。

三つ目のジェンダーと人種に関する多元主義も「制約と賦活」アプローチからの帰結です。「制約と賦活」の枠組みでは社会種は制約と賦活の集まりとして捉えられることになります。ただ、そうした制約と賦活をどのくらいのきめの細かさで捉えるかというのは、論者の目的によって変わってくるため、それに応じて社会種にもきめの細かさの違いが出てくる。そうすると、端的に「女性」という社会種について論じたいとき、インターセクショナリティを考慮しつつマイノリティ女性の特有の経験について語りたいとき、周囲が認識するジェンダーについて語りたいとき、アイデンティティとしてのジェンダーについて語りたいときといった異なる場面で、私たちは異なるきめの細かさで制約と賦活に目を向けて、それに基づいて異なるジェンダーの話をしていることになるでしょう。ジェンキンスさんは、そうした異なるレベルのさまざまなジェンダー概念のなかで他に比べて特権的なものはないと考えます。いずれも妥当なものであり、私たちは状況に応じてそれらを使い分けているし、そうすべきなのだ、と。

これらの枠組みを提示したうえで、ジェンキンスさんはジェンダーと人種に関して、端的にそのジェンダー、その人種であるという「覇権的ジェンダー/人種」と、ひととの関係のもとでそのジェンダー/種という「対人的ジェンダー/人種」と、アイデンティティとしてのジェンダー/種を分け、そのいずれをも「制約と賦活」理論のもとで説明し、それらの関係を論じていきます。

で、そんなこんなでの最終章がえらく熱くて、それまでの各章で出てきた道具を総動員してトランス排除言説に戦いを挑んでいるんですよね。相手がトランス排除言説だからそんなにトランスの読者にとって元気が出る内容ではないかもしれないですが、でもとにかくジェンキンスさんが全力で戦っている姿は見ることができます。

そして、その章を読んでいて、どうしてジェンキンスさんが規範との関係のもとでジェンダーアイデンティティを捉えるのか、その狙いもちょっとわかったような気がします。ジェンキンスさんは例えばシスジェンダーの男性と移行前のトランスジェンダーの女性が、周囲から見られる対人的ジェンダーとしてはいずれも「男性」に分類されるにもかかわらず、それでも経験していることは違うのだということを、自身の理論的枠組みのもとで主張したいみたいなんですよね。だからこそ、アイデンティティとしてのジェンダーもまた規範の集まりとして捉えられ、周囲からの分類が同じでもアイデンティティが異なっていれば行為や経験がそれによって変わってくる、と考えているようです。

ジェンダーに関する多元主義もこのあたりの議論では効いてきていて、「本当のジェンダー」なるものを探してそれをもとにトランスの人々の性別を決定するような議論の土俵には乗らず、まずはトランスの解放を掲げようという話がなされたりしていました。

最初に枠組みを出したあとしばらくはその枠組みのもとで各レベルのジェンダーや人種の扱いを説明する議論で、あちこちで似たような話が繰り返される感じもあるのですが、とにかく最終章が熱いので、気になる方は読んでみてほしいです。

群像2024年3月号

今月出た群像の「言葉の展望台」は、珍しく日常の体験などの話はあまりせず、哲学の話に振り切ってみています。

テーマは哲学方法論。私は概念分析以外の手法をほぼ知らないので概念分析の話に焦点を絞っていますが、しばしば「どんなことでも哲学になる」と言われる哲学という分野だけれど、やっぱり哲学者がうまく語れなくなる領域はあるのではないか、概念分析が常にまともに適用可能とは限らないのではないか、という話をしています。

トランスジェンダーの人権や経験について語る際に用いられる概念について、その概念を用いるトランスコミュニティにろくに関わったこともなく、大した知識を持っているわけでもない哲学者がいっちょ噛みで適当な放言をして「哲学的議論なんで!」とか言うというよくある出来事に腹を立てつつ考えた内容ですが、私自身も「普遍的な学としての哲学」みたいなイメージに甘えず、語れること、語れない(語ると間違えてしまったり害をもたらしたりする)ことについてちゃんと考えていきたいところです。語れないことを語れるようになるには、みたいな話もしています。

同じ号で、なんと言語学者の川原繁人さんが『言葉の風景、哲学のレンズ』のレビューも書いてくださっています。「おお、こんなふうに読んで紹介してくださるなんて…!」と感動しながら読んだので、そちらもぜひ!

あと今号には一緒にブランダムを訳したりした友人の朱喜哲さんもエッセイを寄稿されてます。酒場のよい客になるとはという話をローティを介して展開していて、朱さんらしい楽しいエッセイでした。

丸山正樹『逃走の行先』、白川尚史『ファラオの密室』、東野圭吾『あなたが誰かを殺した』

なんだかミステリ気分で、きのうきょうと読んだ三作。

丸山さんは、ほかの作品もそうですが現実の社会問題、とりわけさまざまなマイノリティがこの社会で陥る苦境をしっかり作品に反映しつつミステリにしていくのがすごいですね。今作は『デフヴォイス』シリーズで登場した何森を主人公とするスピンオフですが、それとともにコロナ禍で苦境に立たされる女性たちの物語でもありました。何森が出会う事件を通じて、ベトナム人技能実習生の女性、パパ活をおこなう女性、ホームレス状態の女性、コンゴ籍の女性といった人々がコロナ禍で追い詰められる様子が炙り出され、何森自身も刑事としての自分のあり方を見つめていくことになるという内容。読んでよかったです。

定年間近のシスヘテロ(と思われる)男性の何森が、少しずつフェミニズム的な問題意識に接近していく雰囲気もいい。

『ファラオの密室』は、古代エジプトを舞台に、心臓の一部が足りず死後の審判を受けれないままミイラの体で復活した主人公が自身の死の謎を探りながらファラオのミイラが密室から消失した事件に挑む話。…というとすごく非現実的に聞こえそうですが、意外と奇を衒っている感じはなく、古代エジプトの神話に見られる世界観を実直に舞台設定にしていった印象で、その辺りが面白かったです。ミステリってなぜかジェンダー観が引っかかる作品が多いジャンルなイメージですが、そのあたりも比較的読みやすかったです。

最後のオチは、「当然そうですよねー」でした。

『あなたが誰かを殺した』は、奇抜なトリックなどもなく論理を突き詰める系のミステリでいまでもこんなふうに「あ、気づかなかった!」みたいな驚きを味わえるんだなと感じました。(女性の描写は気になります。)

映画『ミツバチと私』(ネタバレあり)

映画『ミツバチと私』オフィシャルサイト|

公式サイトのあらすじ

夏のバカンスでフランスからスペインにやってきたある家族。

母アネの子どものココ(バスク地方では“坊や(坊主)”を意味する)は、男性的な名前“アイトール”と呼ばれることに抵抗感を示すなど、自身の性をめぐって周囲からの扱いに困惑し、悩み心を閉ざしていた。 叔母が営む養蜂場でミツバチの生態を知ったココは、ハチやバスク地方の豊かな自然に触れることで心をほどいていく。

ある日、自分の信仰を貫いた聖ルチアのことを知り、ココもそのように生きたいという思いが強くなっていくのだが……。

感想

最終日に駆け込みでシネリーブル梅田に行って見てきました! トランスのひとたちがあちこちで褒めている注目の映画だったからか、知り合いが二人も見に来ていました。いつのまにかシネリーブルのオリジナルクラフトビールというのが出ていて、飲んでみたかったけどそれで上映中にトイレに行きたくなっても困るし断念…。

この映画、性別違和を抱えて生きる子どもとその母親を中心に据えた作品ですが、すごくよかったです! よくある「性別違和ストーリー」だと、当人の心理的葛藤や苦痛が語られ、周囲の受容と苦痛からの解放(「自分らしく生きる」の実現)がクライマックスになる印象ですが、本作はちょっと違う感触でした。

大きいのは、当人の心理よりも社会における性別分け実践に焦点が当てられていること。プールに行くだけで性別をしつこく訊かれ、道を歩いているだけで女の子か男の子かと話題にされ、そして生まれたばかりの赤ちゃんでさえ勝手に周囲が性別で名指す。描き方としては「自己嫌悪」の一種として性別違和を語るのではなく、このわけのわからない風習のもとで回る社会への戸惑いが中心になっていて、「わかる!」という感覚が強かったです。

映画の前半でそうしたこの社会の奇妙さを延々と示していき、そのなかでまだ自分の経験していることを言語化できない子どもが苛立ちとストレスを高めている様子がリアルで丁寧な描写に感じました。最初から言語化なんてできないですよね。

後半では、友達になった女の子ニコと養蜂業を営む大叔母ルルデスとの交流のなかで、ココも自分が置かれている状況や感じていることの言語化を少しずつ学んでいき、ルシアという名の女の子として自らを語るようになっていくのですが、このあたりのやりとりは本当に素晴らしかったです。「変わった体の女の子もいる」と当たり前のように受け止めるニコ、ゆっくりと語りかけるようにして言語化を手伝い、本人が経験している通りの存在として接するルルデスが、ココにとってセーフスペースのようになっている感触がはっきりと伝わって、「この子にこういうひとたちがよかった」と感じさせられます。

そして、ラストの行方不明になったココの捜索のシーン! 「アイトール」と本人の望まない名前で呼び続ける人々のなかで、お兄ちゃんが悩んだ末に「ルシア!」と呼びかけ始めたときには涙が溢れ出して、嗚咽が漏れてしまいました。

パンフレットでも「変わるのは本人ではなく周囲」といった話がありましたが、全体としてこの作品はその方向性を貫いているのがいいですね。別にココ=ルシアが作中で大きく変化したりはしていないんです。以前から経験していたことに言葉を得たのと、自分の話をきちんと聞いてくれるひとが現れたのとくらいで。作中でも明示的に述べられているように、変わるのは以前からうっすら気づいていたはずなのに目を背け続けていた周囲の人々で、後半はお母さんを中心にその変化にかなりウェイトが与えられていました。

それにしても、本作を見ていて改めて感じたのは、「混乱しているのは当人ではなく、周囲の人間や社会のほうなのに、周囲や社会が変わらないとその混乱を当人が肩代わりするしかなくなって、それが『性別違和』として現れるのでは」というこたでした。勝手な基準で性別分け実践をしておいて、それにうまく適合しない子がいなかったら混乱して気持ち悪がったり怒ったり矯正を求めたりして、そんなことが起こるから「自分に何か問題があるのか」と苦しみを抱え込むようになり、子どものうちから「死んで生まれ変わったら」といった発想に至ってしまう。みながニコやルルデスのようにその子をその子のまま、その子が表明するように理解していたならば、普通ににこにこと幸せに暮らせるのだろうに。

私も最初に「こんな人生、生きていても仕方がない」と思ったのは幼稚園、初めて自殺を考えたのは10歳くらいのことだったので(生まれ変わりの話にも興味を持ってあれこれ読んだりした)、いろいろ思い出してしまいました。

多くのひとに見てほしいし、そしてできたら(一度目は難しくても二度目で)作中で描かれる社会がココ=ルシアにはどのようなものとして経験されているのかを追体験してみてほしいです。

八目迷『ミモザの告白』(4)(ガガガ文庫)【ネタバレあり】

ミモザの告白 | 書籍 | 小学館

高校生の男の子咲馬と、その幼馴染のトランスの女の子汐を中心とした高校生たちの青春を描く作品の第4巻。

1巻では汐のカムアウト&トランジションと咲馬を筆頭としたクラスメイトたちの戸惑いと受容が語られ、2巻では文化祭で演劇に挑むふたりの話が展開して、3巻では汐のトランジションを受け止めきれない元部活仲間とひとりのクラスメイトとの関係が扱われての、4巻目です。今回も「受け止めきれない」ひとの話ですが、以前からちらほら話題にはなっていた汐の妹の話と、そして汐と咲馬が新しい関係を探る話とがメイン。

この小説、あんまり周りで話を聞かないけどすごいと思うんですよね。何がすごいって、トランジションというものの実態を描いているように思うんです。

「これから女性として生きる」とカムアウトし、服装やらを変えていくという感じのトランジションストーリーはよくあるけれど、たいていはそれで「自分の性別で暮らし始めてよかったね」で終わってしまう。でもこの小説では1巻でそのあたりのありがちな話は一通り終わるんです。

では2巻以降は何をしているかというと、汐との交流のなかで周りのあり方とそれに基づく社会的な関係がゆっくりと、たまに歪みや衝突を生じさせながら変わっていく様子が描かれている。実際のトランジションって、こういう長期にわたる社会的関係の変化が主たるものだと思うんですよね。宣言とか服装の変化とかだけで終わることなどではなく、むしろそこから周囲が変わり、当人が置かれる位置付けが変化していくことが本番というか。

本作は2巻以降それを描き続けていて、それに加えて場合によっては「理想的ではないけれど、ひとまずうまくやっていくための社会的な交渉をする」みたいな様子さえ伺えるようになっている。今巻ではどうしても理想的な優しい「お兄ちゃん」が女の子だったと受け入れられない妹との衝突ののちに、関係はある程度修復するものの汐が「お兄ちゃん」予備を許容し、その理由のひとつに「どうせ大学に進んだら実家を出るのだから、それまでの我慢」といったことも打ち明けられていて、トランスの生ではこういうことがよく起きるよね、と感じたりします。

まあ、私はもうトランジション歴が長いので、慣れてくれないひとは私の人生から退場していき、いまや普段の生活ではほとんどトランスだと意識する機会もないですが…。

汐を魅力的な女の子として描き出そうとしつつ、けれどもステレオタイプな(トランスの)女の子にするのを避けている点も、とても好感を持ちます。一人称は「ボク」、喋り方もわざとらしい「女言葉」みたいなのはぜんぜん使わず、むしろどちらかというと淡白でややボーイッシュな喋り方をしていて、運動が好きで、部屋は殺風景で、…と、「女らしさ/男らしさを追求したがるトランス」みたいな偏見に真っ向から立ち向かいながら、本当に素敵な女の子なのが素晴らしいです。

そのあたりの描き方だけでなく、あとがきや挙げている文献などを見ても、人権に関わる問題へのコミットメントがかなり明確な作者さんで、その点でも安心感が高いと感じます。

次の巻で最後らしいですが、作者の八目さんの気が向いたらたまにその後の短編集とか出して欲しい…。