あれこれ日記

趣味の話や哲学のこと

マイア・コベイブ『ジェンダー・クィア』(小林美香訳、サウザンブックス)

http://thousandsofbooks.jp/project/genderqueer/

トランス関連のグラフィックノベルの情報を探すとかなり頻繁に目にするタイトルなのですが、いままで読む機会がなく、この翻訳で初めて読みました。

この作品はジェンダークィアである著者の自伝的作品。トランス関連作品を読んでいてよく感じる大雑把さがなく、とても繊細に著者が自分自身を見出していくプロセスが語られています。

ひとによってかなりさまざまなところだとは思うのですが、「小さいころから自分を女の子だと思っていて」みたいなの、私はあんまり当てはまらないんですよね。いま思い返すと、無数の「兆候」はあって、友人には冗談めかしながら「なのに気づかなかったんだよねー」と話したりするのですが、私が経験していたのはとにかく「混乱」でした。意味がわからない。自分が何者なのか、一貫した解釈を与えられない。

トランスに対してよく「単に男/女っぽいものが好きなだけの女/男じゃないの?」という言葉が向けられたりしますが、私に関しては、そういうのは「その可能性はすでに検討済み」という感じなんですよね。長年にわたる混乱に満ちた「私って何なの?」の日々のなかで、そんな当事者でもなく特にこれまでトランスに強く関心を持って勉強したりしたわけでもないひとが思いつくようなことなんて、私にしたら子どものころに真っ先に試した仮説であって、それで整合的に自分の経験を理解できないから困ってたわけです(そもそも私は言うほど趣味がいわゆる「女性的」なほうでもないとか)。その後も「ひょっとしてゲイなのでは?」と仮説を立ててみたり、「Xジェンダー?」と考えてみたり。ジェンダークリニックに行ったときでさえ、私は「自分が女性であると思っているわけではないし、どれくらい身体的な移行をしたいかもわからない」と打ち明けて「じゃあ、ゆっくりちょうどいいところを探していきましょう」と言ってもらったりしていたんですよね。

とにかくわからない。わからないけど、自分自身の日々の経験という膨大な「データ」は毎日毎秒蓄積されていて、でもそれを説明する「私は○○なんだ」という仮説が見出せない(見出したと思ってもすぐにそれに反するデータが生じて棄却される)。私にとってのアイデンティティの葛藤は、そんな感覚でした。たぶん典型的な「男の子の体に閉じ込められた女の子」みたいなのとはまったく違うタイプだと思う。

……と、長々と自分の話をしたのは、この本の著者の自分を探すプロセスが、私の経験にとても似ているように感じたから。この著者も、何度も何度も「自分は○○なのでは」と仮説を試しては失敗して、その都度悩み続けている。一般化できることではないし、最初から自分の性別に確信があるひとも世の中にはいるのだとは思うけど、でも私にとってはこの混乱がこのうえなくリアルな描写で、それが読んでいて嬉しかったです。

現在は、トランスジェンダーに関してリアルな話や繊細な話、個人的な話がしづらい状況になってしまっていると感じます。私からするとほとんど興味のない事柄に、世の中のひとは「トランスジェンダー問題」を見出して、勝手にトランスの姿を空想してはそれを批判したりしていて、私にはもはや何が何だか、誰が何のために何の話をしているのかわけがわからないありさまだし、繊細な話をしようとしているひとも私から見たら「そんなところどうでもよくない?」みたいなところでわあわあ言われていたりする。

以前にエッセイで「本当はもっとどうでもいい話をのびのびしたい」みたいなことを書いたのですが、もはやどうでもいい話どころか、真面目な話さえほとんどできないように見えてしまう。

そんななかで、この本が出たのはとても嬉しいことだと感じます。真面目な話をするにしたって、このくらいちゃんと話したい、「シスジェンダーのための話」ではなく「トランスジェンダー/ノンバイナリーの話」をしたい、と思います。