あれこれ日記

趣味の話とか

「最悪!」(『片袖の魚』)

2023年のトランスジェンダー可視化の日を記念してシアター・フォー・オールで公開されていたので、見直してみました。劇場でふつうに二回見て、そのあと東海林監督と京都みなみ会館でおしゃべりしたときにも見たので、通算四回目ですね。

映画『片袖の魚』公式サイト

 

『片袖の魚』は、本当に何度見てもいい! 何せ「わかる!」の連続なんですよね。正直なところ私はシスジェンダーのひとのジェンダーやら性やらへの向き合い方は知識としてしかわからないような感覚があるので、なかなかこういう「わかる!」がなかったりします。

 

地味な格好が「わかる!」

まず、ひかりさんが仕事のあいだ比較的地味で、そこまでフェミニンでない服装、化粧っけも少ない格好で、髪を束ねてるじゃないですか? 私はもちろん監督がどういう意図でそうしたのかとかを聞いたわけではないので意図した通りの理解かはわからないのですが、でも「やるやる! やった!」と思うんです。

すべてのバイナリートランスのひとがそうだというわけではないと思うけど、バイナリーなトランスとして私がいちばん恐れていたことって、既存のジェンダーの秩序から外れた存在だと見做されることだったんですよね。

よく世の中ではいきなり女装してメイクして「きょうから女です」と言い出す、みたいに想像されがちに思うけれど、私からしたら「女装」とか「オカマ」とかと認識されるのがいちばん恐ろしいことでした。男性として生きようとすることは「いつか耐えられなくて自殺するな」という持続する絶望感をもたらすけれど、それは全身を布で包まれて締め付けられているような苦しさ。それに対してジェンダーの秩序の外部にあると思われることは、私にとってはナイフで刺されるような痛みを伴うことでした。

そうすると、「できたら女性だと認識してもらいたいけれど、いざとなれば『単にそういう格好の男性で、そしてこれは女装でもないんです』と言い訳できそうな(実際にできるかというとできないと思うんですが)ラインを狙ってしまうんです。そこで出てくるのが、何となくラインや着方はフェミニンだけどメンズライクといえばメンズライクな服とか、メイクをしているとわかるようなメイクは避けるとか、あと髪型も、何となく長い髪を下ろしているとフェミニンすぎる気がして、髪を束ねたりするんですよね。私もまさにそんな格好をしばらくしていました。

こういうのってどうしても、「相手の失礼になるといけない」みたいな場面でやりがちなんですね。秩序を乱すのを恐れているわけですから。安心できる場所に行くときとか、特に誰かと会うでもなく過ごすときとかには別にしないけど、仕事ではするというの、わかる気がします。

私はあと、はっきりカムアウトしていない知り合いに会うときとか、そんな感じでした。まあホルモンで顔つきとか体つきとか変わるので(事情に明るくないひとは性別適合手術とかをやたらと重視するけど、実体験としては外見的な変化は主にホルモンによってもたらされる)、相手からしたらバレバレかもしれませんが。

 

電話で声を戻すのも「わかる!」

私はたぶんトランスの女としてはかなり声を作らない方で、普段から普通に低い声で話していますが、そうは言っても実は移行前とは発声法は違うんですね。どう説明したらいいのかわからないのですが、喉を上部と下部に分けたとき、もともとは下部で主に発声していたのがいまはほぼ常に上部で発声していて、あと軽く舌が上がるとともに口蓋も上がって、口のなかに少し小さめの空間をもうひとつ作ってそこを新しい口として使っているような感じ?

というと、「そんなの維持できないでしょ」と思われるかもしれませんが、むしろもはやこれに慣れてしまって、昔の声は意識しないと出せないんですよね。余談ですが、よくトランスジェンダーの女性を「声は男性」とか言ったりするひとがいるけど、シス女性のような声でなかったとしても実際には男性として生きていたときの当人の声とはまるで違うことが大半なわけで、シスジェンダー目線での粗雑な「女の声」「男の声」で分類するからそういう語りになるだけであって、私の声などは「典型的なシスジェンダーの女性とも典型的なシスジェンダーの男性とも違うトランスジェンダーの女性の声」だなと思ったりします。

そんなわけで、電話の途中で咳払いをしながら調整して昔の声に戻すの、「なるなる!」なんです。「なんでわざわざマスキュリンな声に戻すの?」と疑問に思うひともいるかもですが、このときはまだ相手に女性としてのいまの姿を見せていないわけで、秩序を乱すことを恐るタイプのトランス的には、相手を混乱させないよう合わせてあげないと、ってなるのですよね。わかる、わかる。ある、ある。

 

いるいる、そういうひと!

ひかりが出会う人々もすごくわかるんですよ。ひかりから告げたのか、気付いたのかわからないけど、ひかりがトランスジェンダーだと知って、さも「配慮してます」風に誰でもトイレを勧めるひと。いますよね! ああいうひと!

こっちはこれで何年も生きて、トラブルにならないよう暮らしているのだから、その場その場で誰でもトイレがいいか女性用トイレがいいか男性用トイレがいいかは判断できるし、仮にその判断がうまくいかなかったとしても、たぶんトランスとして生きたことが一日もないひとよりはだいぶん場数を踏んで慣れていると思うのですよ。なので、トイレの位置さえ教えてもらえたらどれを使うかはこちらで決められるのに、なぜ勝手にあなたが私のトイレの使い方を決めつけるのか!って思いますよね。あとやたらと誰でもトイレを勧めるのって観察的なアウティングになりかねないのでは、とも思いますけど、なんだかこう、「配慮してます」という顔で言われる。います、そういうひと。

そして、手の大きさから「男性?」とか言い出すひと! そういうひとって、それに気づくのが自分の眼力の証になると思うのか、それともそのことがいい話題になるとでも思うのか、嬉しそうに言うんですよね。私も面接でそれに近いことをされました。そもそも手でもなんでもひとの体をじろじろ見るな、仮に見たとして当人に面と向かって品評するな、しかもそれを嬉しそうにするな!と思いますよね。「よくわかりました! 素晴らしい!」みたいになるわけないじゃないですか? でも、たぶんシスジェンダー同士でトランスの芸能人について話したりするときのノリの延長線上でやってしまうのでしょうね。

女子校や男子校で長く過ごしたひとがそこを卒業したあともしばらく女子校や男子校の感覚でいるせいで場違いな言動をしてしまうみたいな失敗談をシスジェンダーのひとたちの口からも聞く気がしますが、それで言うとシスジェンダーのひとたちって生涯のほとんどをシスジェンダー学校、シスジェンダー社会で過ごし続けているから、たまにトランスジェンダーのひとと会ってもシスジェンダーのノリが抜けないんでしょうね。相手がトランスジェンダーであることを話のタネにしつつ、相手にシスジェンダーのノリを無意識に求めている感じ。

女性ばかりの職場が比較的安心できる空間なのも、あるあるですよね。私の経験上だと、シスジェンダーのひとのなかでは男性より女性のほうがすんなりとトランスジェンダーの女性を単に女性として認識するひとがはっきりと多いように思います。まあ、逆に変にちやほやしてくるひととかもいるのですが。

 

飲み会のしんどさが「わかりすぎる!」

あの飲み会の場面は、辛さと「わかる!」が詰め込まれていますね。まず、移行前にしか会っていない知り合いに移行後久しぶりに会うときなんて、こちらは情報や心理的その他の安全性をきちんとコントロールしたいから、最低限の人数で会いたいんですよ。でも、その辺がピンとこないと、あんなふうに勝手にほかのひとを呼んだりする。そうするとこっちはいまの姿を見せる気もなかったひととかといきなりしゃべらないとならないわけで、すっっっごく疲れるんです。

そして、あの飲み会全体のノリ! こちらはトランジションしたいまの姿を見せることで、これまでの延長線上ではないかたちで少し関係を調整して、いまの自分と相手とでちゃんとやっていけるようにしたいわけなんですよ。なのにあの、おそらく昔と変わらないのであろうあからさまなホモソーシャルな雰囲気にひかりを巻き込むことで、「お前は以前と同じ『光輝』で、俺たちの仲間だ」みたいな空気を出してくる。たぶん「いい連中」なのはわかるんですよ。だからあからさまに攻撃したりはせず、「いまでも仲間」みたいに振る舞う。でも、こちらは「いままで通り」ではいられなかったからこそのいまの姿なわけですから、そんな関係に組み込まれるなら、いまの自分の居場所がそこにないということになってしまう。

あと、そんなふうに「いまでも仲間」感を出しつつ、そのうえでなぜか「女扱い」として「誰が好みか」とか「知らなかったらいける」とか言い出すあれも、ありますね! もちろんシスジェンダーの女性にもいろいろとそうした言動はするのだと思いますが、トランスだと「女としてのモノ扱い」と「トランスとしての珍しいもの扱い」の合わせ技で来たうえで、「でも長年の男友達だからこういうノリが楽しいはずだよな?」が重なってくるんですよね。きついですよね!

でも本人たちは昔と変わらない関係のもとでひかりを迎えて、「差別せずいままで通り付き合う懐の大きい我々」をしているわけで、なんかこう「いいことしてる」感が出てくる。だからこその、あのサッカーボールをひかりに渡すときの「いま俺、いいこと言ってるな」という顔つき。サッカーボールを投げつけるひかりに「よくやった!」と喝采したくなります。

 

「最悪!」と言える場所

そんな私から見て「わかる!」「あるある!」が連続する『片袖の魚』ですが、私はその最後のシーンを最初に見たときに泣きそうになりました。何かというと、この最悪な帰郷のあとで、ひかりが馴染みの飲み屋さんで「最悪!」と愚痴って笑うんですね。

ひかりの最悪な経験は、私にもいろいろと覚えがある身近な最悪なんですよ。でも、私は「最悪!」と言える相手がなかなか見つからなかった。

シスジェンダーのひとにはわからない、というわけではないんです。親しいシスのひとのなかには、きっとスムーズに伝わるひともいる。でも、たいていのシスジェンダーのひとはたぶん笑えないと思うんですよね。ああいうふうに笑い合うのって、トランス同士か、あるいはそうでなくてもそれにとても近い関係でしかできないことなのではないかな、と思います。

そんなふうに笑い合える場所をひかりが持てていることが、小さなことかもしれないけれどとても希望に満ちていて、涙が出てきます。それに、悲しみ苦しむばかりトランスのひとの話より、むかし好きだったひとであっても「最悪!」と笑い飛ばしてきっぱり忘れてしまうトランスのひとの話のほうが、見ていて元気が出ますよね。

 

そんなわけで、『片袖の魚』は何回見ても新鮮な気持ちで「いいなー」と感じるんです。この機会にいろんなひとが見てくれるといいな。