あれこれ日記

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ある少女の死の、それまでとそれから(Jodi Picoult & Jennifer Finney Boylan, Mad Honey)

Jodi PicoultとJennifer Finney Boylanの共著で、2022年にけっこう話題になっていたっぽい小説Mad Honeyを読みました。

 

出版社の公式ページが見つからなかったので、Picoultさんのサイトの紹介をあげます。

Jodi Picoult · Mad Honey (2022)

 

本作は、ジャンルで言えば法廷ものに当たるかと思います。ミステリといえばミステリですが、推理物というよりも登場人物たちの関係や心理に焦点が当たっている作風。

 

本作の主人公オリビアは、かつて夫からの苛烈なDVから逃げ出し、いまは父のあとを継いで養蜂業を営みながら、息子のアシャーとふたりで暮らしています。アシャーとの仲は良好で、アシャーはたまにガールフレンドのリリーを連れてきたりします。オリビアは物知りでチャーミングなリリーのこともとても気に入っています。アシャーは優しく、高校のアイスホッケーチームでもキャプテンをやっていて、とにかく絵に描いたような魅力的な男の子。

 

ところがある日、なかなか帰ってこないアシャーを心配していたオリビアのもとに、アシャーから電話がかかってきます。アシャーは「リリーが死んじゃった」と告げるのでした。そしてその翌日、アシャーは一級殺人の容疑で逮捕され、程なく裁判にかけられることになります。有罪となれば終身刑になってしまう。オリビアは弁護士の兄ジョーダンに協力を仰ぎ、アシャーを救おうとします。

 

物語は、オリビアとリリーというふたりの主人公の視点から語られます。オリビアの物語は、リリーの死を起点とし、アシャーの裁判を中心にだんだんと先に進んでいきます。その過程でオリビアは、優しい好青年だと思っていた息子に、自分へ暴力を振るった夫の面影を見るようになっていき、これまで知らなかったアシャーの姿を、そして自分には見えていなかったリリーの姿を知っていくことになります。

 

リリーの物語は、リリーの死からだんだんと遡っていきます。死の直前から、数日前、数ヶ月前……、と。リリーもまた、暴力的な父親から逃れ、母親とふたりで暮らしています。リリーの物語では、リリーとアシャーや友人たちとの関係、リリーがさまざまな場面で何を思っていたのか、そして父親とのあいだに何があったのかなどが次第に語られていきます。

 

法廷では、陪審員へのアピールが中心で、ジョーダンも検察官も、真実がどうだったかではなく、アシャーがどんな人間に見えるか、リリーとどういう関係を構築していたように見えるか、それぞれでもっともらしいストーリーを構築して提示するかたちで進展していきます。その一方で、読者である私たちは、「リリーの目を通した事実」を少しずつ知っていき、ときにはリリーが語らなかったことが法廷で明かされたり、逆にリリーが見てきたことが法廷で歪められたりするさまを目撃することになります。その展開に心が揺さぶられるとともに、次第に明かされていくアシャーとリリーのふたりで過ごした時間が、とても美しく切なく感じられます。ぜひ翻訳&映画化されてほしい。巻末には蜂蜜料理レシピ集も!

 

……というわけで、ここからはネタバレ全開でいろいろ語ります。

 

 

ネタバレあり感想

私はもとから「トランスジェンダーのキャラクターが出てくる」と聞いていたので、わりと早い段階で、「あ、このキャラのことだな」とわかったのですが、物語の中盤でそれまでそんなふうに語られていなかったキャラクターが、 トランスジェンダーであることが明かされます。

 

もちろん、それはリリーです。リリーは、第二次性徴前に第二次性徴抑制剤(ブロッカー)を使ったうえで、シス女性の第二次性徴とおおよそ重なるような時期にホルモン治療を始め、そしていまの街に引っ越してくる前にクオリティの高い性別適合手術も受けており、体を見ても声を聞いても、同世代のシスジェンダーの女の子と何の区別もつかない、完全に埋没(と、トランス業界では言うのですが)している女の子です。そして、彼女がトランスジェンダーであると明かされるあたりから、物語はかなり独特なうねりを持ち始めます。

 

最初は、「トランスの女の子が男の子に殺される話」に思うのですよね。もちろん物語の展開上、アシャーが殺したとは思わないのですが、ただ別の男の子がトランスだと知って殺したのだろう、とかと考えてしまうわけです。でもこの小説はむしろ、リリーがトランスジェンダーの女の子で、そして死んでいるという事実を提示されたときに私たちが思い浮かべる構図そのものを、裁判という場面で俎上にあげてテーマとしていく構成になっています。この物語はむしろ、「トランスショック」でリリーを殺したと疑われるアシャーとリリーが、いかにそうでない関係を築いていたかをリリーの語りを通じて読者に見せてくるのですよね。

 

また、オリビアの物語もリリーがトランスだと知って大きく動いていきます。一方でオリビアはアシャーがそのことを知っていたかどうかを非常に気にします。もちろんこのとき、「知っていたとしたらそれが理由で殺してしまった可能性を否定できない」という思いがあります。他方でオリビアは、トランスジェンダーとして生きるということの意味を知ろうともしていきます。近所に有名なトランスの中年女性がいて、そのひとのもとを訪ねてトランスとしての生について聞こうとするのですね。無知ゆえに無礼なことを訊いては叱られつつ学んでいくオリビアの必死さがなかなかいいです。

 

この作品、実はごくごく小さく触れられるだけのキャラを含めると、性的マイノリティに当たる人物がけっこう出てくるんですよね。アシャーの幼馴染でリリーがいちばん仲良しな友達であるマヤには、お母さんがふたりいます。また三人の通う高校には、ノンバイナリーの生徒とトランスの男子生徒で作った当事者団体もあります。そんなふうに普通にいるからこそ、逆にそれでもリリーがトランスであることを周りに隠さなければならなかった背景、「隠さないと生き抜けない」と思うに至った彼女の過去が際立つという面もあります。

 

それにしても、この小説はリリーの描写がめちゃくちゃいいんですよね。著者のひとりであるBoylanは自身もトランスジェンダーであることをオープンにしているかたなのですが、その経験が反映されてか、かなりトランスとしての経験の解像度が高いんですよね。埋没を望むがゆえに当事者団体には接点を持とうとしないのだけど、でも街でトランスジェンダーだと一目でわかるひとに会ったときの、「いますぐにでも『私もそうなんです』と言いたい」という気持ち、もう本当に、どっちもめちゃくちゃわかります。私もオープンにする前はトランスコミュニティとかに接触はむしろしないようにしていた反面で、街でトランスっぽいひと、特にとても不安そうにしているひとを見かけるといますぐにでも抱きしめて「大丈夫だよ」と言いたいと思っていました。いや、もちろん実際にいきなり私に抱きしめられたらそれこそぜんぜん「大丈夫」ではないと思いますが…。

 

そしてアシャーとの初めてのデートで、足のサイズを告げると男物のスケート靴を出されたときの、「うっ…」という気持ちの描写。「ガーリーなデザインが好き」とかそういう話ではぜんぜんなくて、せっかく抜け出してきた座敷牢が目の前に現れるようなあの感覚。シスジェンダーのひとがどのくらい共有してくれるかわかりませんが、トランスのひとならわかるひとも多いと思います。その描写がとても上手い。

 

そして、こうした繊細な描写の積み重ねがあるからこそ、どうしようもなく思わせられるのですよね。「こんなにも魅力的で、そして苦しい過去を逃れてようやく歩き出したばかりの、かけがえのない女の子の命が失われた」と。この喪失感は作品の全体に染み渡っているのですが、読者もまたその重みをだんだんと感じるようになっています。

 

全体的に「わかる」が多いなか、リリーが受けた術式、というか手術の結果だけは私には思い当たる情報がなくて、「え、反転法(という描写だとたぶん思うのですが)でこんな結果になる手術法があるの?」とちょっと戸惑いましたが、まあ私もずっと情報を追っているわけでもないので、技術の向上に単に追いついていないのかも。

 

「反転法」がわからないかたは、「反転法」「S字結腸法」とかでググってみてください。

 

あとこの作品ですごいと思ったのが、トランス向けとシス向けが両立しているのですよね。私は好みとしてはどちらかというと両立していない、「シスジェンダーの読者はついてきたいひとだけついてきたらいい」みたいなくらいの作品が好きではあるのですが、本作ではリリーの描写のリアリティと、トランスについて理解の浅いオリビアや法廷の人々に自然な流れで提示される解説とがあいまって、トランス当事者が共感しつつ詳しくないひと向けの言葉や概念の解説もなされ、しかもそれらがすごい筆力で自然と結合しているのですね。これは、すごいと思います。

 

そんなわけで、トランスの子が死んでしまう話よりは生きてやっていく話のほうが圧倒的に好きな私ですが、本作は膝を折って「面白かった」と思ってしまいました。トランスのひとにも、それ以外のひとにもおすすめです。

 

作品としても面白いし、リリーみたいな子どもたちがアメリカの保守州でスポーツから排除され出したり、トイレを使えなくされたりしていて、日本でもそれに同調する右派が盛り上がり出している現状だと、本作のリリーみたいな描写が知られるだけでもすごく意味があると思っています。本当に翻訳されてほしいです。

 

ただ、ちょっとだけ小言を加えると、作中でのノンバイナリーの説明があくまでバイナリーをベースにしていたりというのは気になりました。同じトランスのひとでもひとごとに微妙に使っている言葉が違うとかはいいと思うのですけどね。「生物学的性別」とか出てくるのもぎょっとするけど、それはあとのほうでその無意味さを示すような会話があるから、まあいいかな。