https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/290581
京都大学で出ている『哲学論叢』というジャーナルに論文「譲歩的共同行為と共同的コミットメント:高階コミットメント説の試み」が公開されました。夏に京都大学で集中講義をしまして、その縁で招待いただいて書いたものです。
この論文は、2022年にJournal of Social Ontologyで公開された"Concessive Joint Action"という論文の続編的な内容です。英語論文の続編が日本語なのはどうなのかとも思いますが。
"Concessive Joint Action"は以下で読めます。
Concessive Joint Action: A New Concept in Theories of Joint Action | Journal of Social Ontology
共同行為というのは複数人で一緒になってする行為のことで、いったいこれがどういう条件で成り立つかというのが問題となってきました。で、その議論では「一緒に歩く」とか「一緒にケーキを作る」とかの、わりとわかりやすい例を挙げて共同行為の条件を探っていたんですね。
でも、もう少し変な例、ぎりぎり共同行為っぽい例を考察することで、共同行為の条件をもっと絞り込むことができるのでは、という一群の研究もあります。私の"Concessive Joint Action"もそのひとつで、従来のわかりやすい例だと、さも「共同行為が始まるときに共有されていた目的なり意図なりコミットメントなりがあって、それにしたがった参加者の振る舞いによってそれが達成されることで共同行為が成り立つ」かのように見えていたんですね。要するにしっかりしすぎている。思ってたのと違うことをしてしまったりしない。
私は参加者がいい加減であったり、参加者間に力関係の不均衡があったりのさまざまな事情で、始まった共同行為が一部の参加者にとって「本当はそんなつもりではなかった」という共同行為へと変質していく例(「譲歩的共同行為(concessive joint action)と名付けました)があると指摘しました。で、"Concessive Joint Action"は、主にこれも共同行為ですよ、と論じることに紙幅を割いています。
ただ、結局では共同行為とは何なのか、それはどんなふうに進行するのかというところについて、その論文ではあまり踏み込んだ議論ができていませんでした。今回の論文では、2年前の自分の論文の不徹底を批判し、共同行為の具体的な内容に関わる一階の共同的コミットメントと、共同的コミットメントの維持に関わる二階の共同的コミットメントを区別し、共同行為の開始には後者のみで十分で、その後は一回の共同的コミットメントを形成・実現することを目指して参加者は行為していき、その間にふらふらしたり、勘違いがあったりして一回の共同的コミットメントは途中で変わったりもするけれど、最終的に何かの一階の共同的コミットメントに落ち着いてそれが達成されたら共同行為は完了するのだ、と論じています。
要するに、共同行為における参加者の行為を駆動するコミットメントと、共同行為を終了させてそれが何だったのかを確定するコミットメントを区別しつつ、両者の影響関係を高階性から説明するという方針ですね。
『精神科医療における暴力とケア』に収められている論文などでも論じていますが、「意味の占有」という概念の私による特徴づけはこの譲歩的共同行為という概念に根差したものなので、私のなかではわりと大事な話になっているつもりです。