Re: Ronの連載「ことばをほどく」で、マイクロアグレッションについての記事を書きました。
マイクロアグレッションというのは、日常のやり取りで見られる些細な言動だけれど、それでもターゲットとなった人々に害を与えるようなもののことを指します。日本語で読むなら、記事でも紹介したデイヴィッド・ウィン・スーの『日常に埋め込まれたマイクロアグレッション』という翻訳書が明石書店から出ています。
その特徴や害などについての説明は記事中でしているので置いておいて、いくつか周辺的な話を。
実は今回はもとから考えていたことを記事にしたのではなく、このためにいろいろ新たに文献に当たって調べて書いています。私は哲学の人間なので、主に哲学からのアプローチに焦点を絞って調べようとしたのですが、あまり研究は多くないみたいです。Lauren FreemanとJeanine Weekes Schroerが編者となったMicroaggressions and Philosophyという論文集が2020年にRoutledeから出ているのですが、その序文でも「先行研究が少ないから全部この序文で紹介します」と書かれているくらい。とすると、最前線の研究にも比較的追い付きやすいので、マイクロアグレッションの哲学的分析に関心があるひとがこれから取り組むというのも、わりとやりやすいかもしれないですね。
萌芽的な分野だけあって、あまり共有されている目的や論点が固まってなさそうなのですが、そのなかでかろうじて目についたのは、「マイクロアグレッションがもたらす害の責任は誰が負うのか」という問題でした。というのも、マイクロアグレッションに当たるひとつひとつの言動は、それ自体としては他愛のない、それゆえに道徳的に責任を問われるようなものではないことが多いんですね。でも、そうした他愛のない言動が積み重なると、累積的な害が生じる。けれどその累積的な害は、誰かが具体的な主体となってもたらしたものではないので、いったいその責任は誰に問うといいのだろう?という問題になるわけです。
そんな問題を論じるなかで、blameworthiness(非難に値すること)とresponsibility(責任)を区別するといったような議論が展開されていたりするのが面白かったです。個々の言動の主体は、その行為においてblameworhy=道徳的な非難に値するわけではない。けれど、マイクロアグレッションが累積的に害をもたらしたり、それによって差別的な構造が強化されたりするこの社会の成員として、マイクロアグレッションがそうした働きをしてしまう状況を改善すべきresponsibility=責任は私たちみなが負っているのだから、私たちはその責任を果たそうとしなければならない、というように、個別の行為のレベルでのblameworthinessと社会の成員としてのresponsibilityを区別することで、個々の言動の他愛なさと累積的害に個々人が責任を負うこととを両立させる、という話があったりしました。
このあたりは、少し前に読んだSchuyler BaillarのHe/She/Theyで出てきた話ともつながりそうだな、と感じました。Baillarは、「トランスジェンダーは恋愛対象にならないというのはトランスフォビックなのか?」という疑問に対して、「トランスジェンダーが恋愛対象とならないということ自体は仕方のないことであって、責めるに値しないが、トランスフォビックかどうかと言われればトランスフォビックだ」と論じています。で、その際に、トランスジェンダーが恋愛対象とならないというその個人的な好みは、しかしあくまでトランスフォビアが標準となっているこの社会で培われたものであるという話をするんですね。このあたりも、個人の好みとしてはblameworthyではないが、しかしそうした好みへと方向づける力が働くこの社会を変えるresponsibilityはみなが負っている、という語りかたにできそうですね。