あれこれ日記

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岡田索雲「ある人」、『ようきなやつら』

ある人 / ある人 - 岡田索雲 | webアクション

かなり話題になっていた漫画「ある人」。どこでかというと、トランスコミュニティで。

つげ義春の「ねじ式」を下敷きにしながら、トランスジェンダーの人々がいま現在向けられている視線やぶつけられている言葉を取り上げていて、描かれている風景は非現実的なのにそこで語られている経験はあまりにリアルという、かなり独特な作品になっています。個人的には、日本語のトランスジェンダー漫画の最高傑作のひとつだと思います。正直なところ、怪しげなトランス関連本に時間を使うくらいなら、これを読んでくれたほうがトランスの生きている現状についてはるかに多くのことを学べそう。

日々直面しているどうしようもない困難の話をしたいだけなのに、ひたすらトイレと風呂の話をされ、そしてその話をしたがっていることにされ、さらには勝手に手術の有無で知らない人間から審査をされるうえに、医療的な処置を求めようとすると医者がゲートキーパーとして立ちはだかる。誰も声を聞いてくれず、人々は実態のない空想的なトイレの話で夢中になっている。

そんななか、トランスたち同士でともに佇み、「どうしてわたしは説明し続けなければならないのでしょう 繰り返し繰り返し わたしが存在している理由を……」「本来ならば必要のないことです わたしたちは論争のための道具でもなければ馬鹿にされるための問題でもない」と声を掛け合う。こんな当たり前で簡単なことも、私たちは語り合える場所をほとんど持たない。

トランスの置かれているこの状況は、本当に「不条理」としか言いようがなくて、それは「理不尽だ」という意味でもそうだけれど、カフカ的などうしようもない悪夢のようなものとしての「不条理」でもあると感じます。

多くのひとが私たちに興味を持っている、私たちのことを話したいというのに、私たちの経験していることに興味を持ったり私たちと話したいと思ったりというひとはほとんどいないというわけのわからなさ(みんな何の話をしたがっているの?)、医療的な処置を受けるよう知らないひとたちから要求される(「手術をしろ」)のに医療的な処置へのハードルはひたすらあげられる(ジェンダークリニックの少なさ、医者の認める「本物のトランス」への適合の要求、ホルモン治療を受けるトランスたちへの攻撃、「ROGD」なる疑似科学概念(MIT Tech Review: 波紋広げた研究論文、トランスジェンダー伝染説はいかにして利用されたか)での若年トランスの存在および医療の拒否)というわけのわからなさ。トランスの個々人にはどうしようもない状況のなかで、それでも私たちは互いの存在を知り、声を掛け合い、この状況を私たちの間でかろうじてぽつぽつと語り合う。ただ、トランスはあまりに数が少ないから、そうしたひとと出会うまでにも「この世界を生き延びるための術を身につけ」どうにかやっていくしかない。自分を愛せず、愛していい存在ではないと周囲から指さされたりしながら。

「自分を愛するためになぜここまで苦労しなければならないのか」

極めてリアルであるとともに、けれどそのリアルな状況をわかっているからこそ、「君はこう言いたいのでしょう 女性用トイレを使わせろ!」の馬鹿馬鹿しさや医療の現場でのゲートキーピングが仁王像の図像で描かれることに笑うこともできる。たぶん、この漫画はトランスの現場を知らないひとにはわけがわからないし、知っているけど当事者ではないひとにはあまり笑えないのではないかなと思うのですが、私は自分の存在が認識され、肯定されている安心感と、自分たちの直面している状況がリアルに描かれていることの驚きとともに、それがこんなふうにつげパロディで描かれることに笑うこともできて、だからこそ、この作品の「ギャグ」はひたすらトランスの読者のために描かれたのだと感じて、そのことにも感動してしまいました。

とにかく読んでほしい。そしてこれが奇妙であったり、非現実的であったり、意味不明であったりという作品に感じたひとには、ぜひ(トランス当事者が書いた信頼できる)トランスに関する本を読んだりして、ここで描かれている情景が現実の何に対応しているのかを知ってほしいです。

 

本作を読んだ流れで、同作者さんの短編集『ようきなやつら』も読んでみました。

双葉社

読んでみて気づいたのですが、岡田さんの作品はこれまでにもいくつか読んだことがあったみたいです。「東京鎌鼬」と「忍耐サトリくん」は見覚えがありました。あと、本書の収録作ではないですが、「アンチマン」という短編も読んだことがありました。

本書の収録作は、いずれも女性やマイノリティの置かれているリアルな状況をベースにしながら、その経験を妖怪という形象に託して空想的に描いています。かつて受けた性暴力の告発をする山姥の話や、朝鮮人虐殺事件を真正面から描く作品が強く印象に残りました。朝鮮人虐殺事件は日本で生きる日本国籍の私にとって、自分たちのコミュニティの加害の歴史としてきちんと知らないとならないことであるはずなのに、しっかり向き合えたことがない、まさにポールハウスJr.の言うwilfull ignoranceに私自身が加担している事柄であると実感しました。ちゃんと自分自身を教育しないといけないですね……。

とにかく、岡田索雲さんはすごい漫画家さんだと思います。いずれも読んでみてほしいです。