あれこれ日記

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医者にもトランスジェンダーについての知識が必要(『K2』第381話「移りゆくもの」)

『K2』の全話無料公開が今月いっぱいで終わるみたいです。私もこの無料公開期間に気になって読破したひとり。そのきっかけとなったエピソードの話をしたいです。

K2 - 真船一雄 / 第381話 移りゆくもの | コミックDAYS

これです。もともと読もうと思ったのは、この381話のことを聞いてなのですよね。

『K2』は、かつて週刊少年マガジンで連載されていた『スーパードクターK』の続編で、前作の主人公の死後に「K」の名を受け継ぐことになった医者、その新たなK先生のもとで医学の修行を積む一也などを中心とした医療漫画です。前作は読んでいないのですが、絵柄は『北斗の拳』とか『ジョジョの奇妙な冒険』の初期とかを彷彿とさせる劇画調で、たまに出てくる前作キャラと思しきひとたちがわりとぶっ飛んだ設定なのに対し、今作から出たキャラはそれなりにこの現代の社会で普通に暮らしているため、あちこちで妙なチグハグさを感じてそこも面白かったりします。個人的に、周りが普通の若者だらけのなかに胸板の膨れ上がった筋肉質な体型をしている一也が紛れているところとか、思うところあって旅に出ることにした一也がいきなりマント(!)を羽織って出かけるところとか、好きです。

さて、第381話「移りゆくもの」は、医師としての道を順調に歩んでいる一也が少年時代を過ごした村に戻って、久しぶりにK先生のもとにいるというなかでのエピソードです。一也は新しく越してきたと思しき夫婦の健康診断の結果を伝えることになったのですが、見てみると夫の肺活量がやけに少ない。そこで「さては何かの病気か」と慌てていろいろと調べるのだけど、さっぱり理由がわからず、K先生に相談することになります。しかしK先生はただ「よく見るのだ 既成概念にとらわれず……目の前のあるがままの現実を……その目で」と言うばかりで何も教えてくれない。

戸惑いながらも夫婦のもとを訪れた一也はそこでようやくその夫が以前からの知り合いであること、そして一也の知らないうちに性別移行したトランスジェンダーであったことに気づき、肺活量も一般に女性の基準とされるものに照らしたら異常でもなんでもなかったとわかる、というのがこのエピソードのクライマックスとなります。

このエピソードでのトランスジェンダーの描きかた、気になるところももちろんあるのですよね。例えば「性別適合手術を受けて、それからホルモン治療を続けて」という説明があったりして、微妙な書き方ながら性別適合手術後にホルモン治療を始めたみたいに読めるのが、そういうひとがいないとは言わないもののあまり一般的ではなく気になったり、そもそも性別適合手術トランスジェンダーにとって必須ではないことの補足とかもほしいなと思ったり。あと一般的に女性の平均とされる肺活量に照らすと…、という話のあとで「性を間違ったことによる計算間違い」みたいな発言は、「参照する平均値を取り違えたことによる」という意味で取ればまあわかるけれど「患者の性別を間違ったことによる」という意味にも取れて、この場合はトランスジェンダーだとわかった途端にミスジェンダリングをしていることになって、もう少し言い回しを工夫してほしいと感じます。

とはいえ、私はこのエピソード、全体的には好意的に受け止めています。ひとつには、性別移行や性別違和自体をトピックにしなかったのが医療漫画としてはいい決断だなと思いました。やっぱりシスジェンダーのひとたちからしたらついそこに目が行くと思うのですが、本作ではむしろスムーズに移行して戸籍上の性別や名前も変えて、むかしからの知り合いである一也にもわからないくらいにパスしていてという、一見するとシス男性と区別がまるでつかなくなったひとがそれでも直面する医療の現場での課題に焦点を当てている。珍しいですよね。

でもこの手のことって私もいろいろ覚えがあるんです。あまり害のないところでは、医者に妊娠やら不正出血やら聞かれることがあって、それは私はそもそも関係ないので聞くだけ時間の無駄というのもあります。もう少し健康に関わるところでは、私は健康診断でのクレアチニンの検査値が女性の基準に照らすと超過していて男性の基準に照らすと正常という、まさに『K2』と同じ状況にあって、毎年「異常値なので気をつけるように」と言われるんですよね。でも、私にはこれが私の体にとって異常値なのかどうかが判断できなくて、困るんです。ほかにも人間ドックを受けるときにシス女性用の項目でもシス男性用の項目でもうまく私の体を検査しきれないからいちいちあれこれ頼まないといけないとかもありました。

こうした取り上げ方自体に好感を持ったのに加えて、このエピソードが患者の側の問題ではなく医者の側の問題として語られ、一也の成長を促す出来事とされているのも印象的でした。本当は異常のない患者に異常が生じていると思ってしまったのは、一也が男性といえば当然シス男性だと無意識のうちに思い込み、目の前のひとがトランス男性である可能性を始めから排除していたためなのですよね。だから、既成概念にとらわれずにその患者自身に向き合わないとならない、ということになる。言い換えると、患者がみなシスジェンダーであるという想定をやめて、患者がトランスジェンダーである可能性も理解しつつ、ちゃんと患者のニーズに合わせた医療をしようということで、トランスインクルーシブな医療の必要性を語る話になっているわけです。これがとてもいいと思いました。

もちろん現実には目の前に苦しんでいるひとがいてもそれがトランスジェンダーなら診療したくないという医者はしばしばいるし、医者にそうしてほしい、トランスジェンダーなんて診療所に来ないでほしいと語るひともたくさんいます。でも、K先生や一也は作中でもとりわけ理想的な医者の精神を備えた高潔で誠実なひとたちなので、目の前のひとと向き合い、そのひとが身体的な困難を抱えているならその解決を目指すというのが当たり前のこととなっている。そして、そうした誠実な医者ならば当然トランスジェンダーの体のことも気にかけ、トランスインクルーシブな医療の必要性も感じ取れる、という姿勢がいいですよね。

きっとK先生なら生理のある男のひとやノンバイナリーのひとが「婦人科検診とかと言われると行けない」と訴えればそうしたひとたちが来やすくなるように対処してくれるでしょうし、トランスジェンダー/ノンバイナリーの人々のホルモン治療に関わる相談などにも乗ってくれるでしょう。本当に、こんなお医者さんがいてほしい…。

あと、これはひとによって意見の分かれるところかもですが、私はトランスのキャラクターが、「外見は大きく変わったけど根本的には以前と同じひと」という描き方なのもわりと好きでした。私自身の実感として、外見と周りの認識が変わったのと、あとは周りに合わせて「男らしく」しようとする必要がなくなったり、そもそも明るくなったりというのはありつつも、根本的なところでどんなものが好きとかどんなふうにひとと接するかとかについては、性別移行前の私といまの私は同じ線上にあると思うのですよね。いろいろな経験で変わった面もあるからまったく同じではないにせよ、少なくとも同一の人間としての連続性はあるように思います。性別移行の話って、それによって変わった点ばかり注目されるけど、その根幹にある「同じそのひと」も私にとっては大事だと感じたりします。

そんなわけで、『K2』をぜひ読んでみてほしいです。381話に到達するまで380話あって、コミックスだと30巻以上になると思いますが、意外とするする読めます。もし難しくても、簡単に登場人物だけ調べておけば、このエピソードだけ読んでもそんなに違和感なく楽しめると思います。