あれこれ日記

趣味の話とか

Katharine Jenkins (2023) Ontology and Oppression

https://global.oup.com/academic/product/ontology-and-oppression-9780197666777

ジェンダーアイデンティティ論文などで知られるキャサリンジェンキンスさんの、たぶん初の単著。ジェンキンスさんは2016年の"Amelioration and Inclusion"が『分析フェミニズム基本論文集』で「改良して包摂する」として訳されているので、日本語でも触れられる哲学者ですね。

「改良して包摂する」では、ジェンダーを一種の社会階級として分析するハスランガーの議論を踏まえ、階級としてのジェンダーとともにアイデンティティとしてのジェンダーにも目を向ける必要があると論じつつ、ジェンダーアイデンティティを内的な「地図」として、そしてそれをさらに規範との関係として分析する議論をしていました。

本書Ontology and Oppressionは、そんなジェンキンスさんの議論の背後にある体系的な思想が語られ、それに加えてジェンダーや人種に関する分析がさらに詳しく展開される本になっています。

本書に見られるジェンキンスさんの思想のポイントは以下の三点にまとめられるかと思います。

  1. 社会種に関する「制約と賦活」理論(Constraint and Enablement framework)
  2. 存在的不正義(ontic injustice)
  3. ジェンダーと人種の多元主義

「制約と賦活」理論は、さまざまな社会種がひとの行為を制約する規範とのひとの行為の可能性を開く規範とから構成されているとする立場で、大雑把に言えば社会種を規範の束のように見ているのかな、と思われます。ジェンキンスさんによれば、これはオリジナルの思想などではなく、明示されていないだけで社会存在論を論じる哲学者たちに共通する見解とのこと。

存在的不正義は「制約と賦活」理論からの帰結ですね。社会種が制約と賦活からできているとしたら、ある存在者がある社会的種に属す(「妻である」などが成り立つ)ことがそれ自体で直ちにその存在者にとって不当な帰結を持ちうるとジェンキンスさんは論じます。例えば夫婦間でのレイプが認められないような規範が流通している社会では、夫からの強制的な性行為をレイプとして訴えることをできなくする制約が妻という社会種そのものに組み込まれているのだから、誰かに関して「妻である」が成り立つことから即座にそのひとが不当な規範のもとに置かれていることになる、といった議論が展開されています。先にそのひとがどんな存在なのかが決まってからそれに不当/正当な規範が適用されるのでなく、そのひとがどんな存在なのかということがそのうちにすでに規範の適用を含んでいる、という考え方ですね。

三つ目のジェンダーと人種に関する多元主義も「制約と賦活」アプローチからの帰結です。「制約と賦活」の枠組みでは社会種は制約と賦活の集まりとして捉えられることになります。ただ、そうした制約と賦活をどのくらいのきめの細かさで捉えるかというのは、論者の目的によって変わってくるため、それに応じて社会種にもきめの細かさの違いが出てくる。そうすると、端的に「女性」という社会種について論じたいとき、インターセクショナリティを考慮しつつマイノリティ女性の特有の経験について語りたいとき、周囲が認識するジェンダーについて語りたいとき、アイデンティティとしてのジェンダーについて語りたいときといった異なる場面で、私たちは異なるきめの細かさで制約と賦活に目を向けて、それに基づいて異なるジェンダーの話をしていることになるでしょう。ジェンキンスさんは、そうした異なるレベルのさまざまなジェンダー概念のなかで他に比べて特権的なものはないと考えます。いずれも妥当なものであり、私たちは状況に応じてそれらを使い分けているし、そうすべきなのだ、と。

これらの枠組みを提示したうえで、ジェンキンスさんはジェンダーと人種に関して、端的にそのジェンダー、その人種であるという「覇権的ジェンダー/人種」と、ひととの関係のもとでそのジェンダー/種という「対人的ジェンダー/人種」と、アイデンティティとしてのジェンダー/種を分け、そのいずれをも「制約と賦活」理論のもとで説明し、それらの関係を論じていきます。

で、そんなこんなでの最終章がえらく熱くて、それまでの各章で出てきた道具を総動員してトランス排除言説に戦いを挑んでいるんですよね。相手がトランス排除言説だからそんなにトランスの読者にとって元気が出る内容ではないかもしれないですが、でもとにかくジェンキンスさんが全力で戦っている姿は見ることができます。

そして、その章を読んでいて、どうしてジェンキンスさんが規範との関係のもとでジェンダーアイデンティティを捉えるのか、その狙いもちょっとわかったような気がします。ジェンキンスさんは例えばシスジェンダーの男性と移行前のトランスジェンダーの女性が、周囲から見られる対人的ジェンダーとしてはいずれも「男性」に分類されるにもかかわらず、それでも経験していることは違うのだということを、自身の理論的枠組みのもとで主張したいみたいなんですよね。だからこそ、アイデンティティとしてのジェンダーもまた規範の集まりとして捉えられ、周囲からの分類が同じでもアイデンティティが異なっていれば行為や経験がそれによって変わってくる、と考えているようです。

ジェンダーに関する多元主義もこのあたりの議論では効いてきていて、「本当のジェンダー」なるものを探してそれをもとにトランスの人々の性別を決定するような議論の土俵には乗らず、まずはトランスの解放を掲げようという話がなされたりしていました。

最初に枠組みを出したあとしばらくはその枠組みのもとで各レベルのジェンダーや人種の扱いを説明する議論で、あちこちで似たような話が繰り返される感じもあるのですが、とにかく最終章が熱いので、気になる方は読んでみてほしいです。