オリンピックにおける性別確認検査をめぐる歴史を語り明かす本。このテーマについて詳細は知らなかったのだけど、1920年代から射程に含め、IOCやIAAF、国際女子運動連盟がどのような思惑で誰によって動いてきたのかをしっかり語る本は、井谷聡子さんの解説によれば、歴史学的にも大変貴重なようです。
本書で見えてくるのは、性別確認検査が具体的な「女子スポーツから排除したい存在」を欠いたまま、人種差別や労働者差別と絡み合った「男らしい女」への実体のない漠然とした恐怖と嫌悪から提案され、それとファシズムの台頭による身体への検閲やクィア排除、女子スポーツの管理を女性の手から男性の手に奪おうという企みとが合わさり、行き当たりばったりさと政治的な状況や関係者の欲などが交錯する状況で生まれてきたということ。近代オリンピックの誕生から今日までがひとつながりの歴史として語られていることもあって、スポーツというものの政治性が強く感じられます。
また、性別確認検査の歴史を知らなかったため、その発端が女子スポーツで活躍し、のちに男性へ性別移行した人々にあった、というのを意外に感じました。現在ではスポーツからの排除は主にトランス女性やDSD/インターセックスの女性をターゲットにしていますが、かつては「男性に性別移行した選手はもとから男性的な身体的特徴を持っていたはずだから女子競技時代の記録は不当」という理屈が通っていたらしく、「生まれ持った性別の特徴は消せない」という現代の攻撃法と真逆の「移行後の性別の特徴はもとから存在している」が攻撃のレトリックだったんですね。
私も聞いたことのある「かつてナチスやソ連が男性選手を女性と偽って……」という性別確認検査に関してよく語られる言説についても、それが具体的に誰を指していて、どういう経緯で生まれた噂なのか、実際のところは何が起きていたのかを示し、そもそも事実でないとはっきり述べている点も面白かったです。私も別に鵜呑みにしてはいなかったけど、経緯は何も知らなかったです。
井谷さんの解説もあるように、ワールドアスレティックス(旧IAAF)による性別確認検査の再導入やパリオリンピックにおけるイマネ・ケリフ選手らへのバッシングがあったり、アメリカでのドナルド・トランプによるクィアへの締め付けを展開とするバックラッシュの波があったりと、ほとんど現代の話を読んでいるような感覚でした。出てくるレトリックも異様に類似している。なんなら性別確認検査云々以前の女子スポーツ否定論の時点から類似性を感じる。
スポーツと性別に関心のあるひとは読むべき本だと思いました。